神の沈黙・遠藤周作

理神論

理神論・・・・神には愛が無いという考え
神にかたどって造られたという人間自身に豊かな感情がある。
この感情特に愛はどこから来たものだろう。
我々は自分で自分を創造することはできない。
それゆえ、自分の原因となるものがなければならないが、原因のうちに無いものが結果にでてくるわけはない。
この点からも宇宙の根源・・・神には情的要素があると考えざるを得ない。
自然界の美しさ、人間が到底まねできない芸術性をを見ても、創造主の情を感じる。
また、聖書の多くの部分にも、神が人間を愛していることが書かれている。

祈りや瞑想においては、自分ひとりではなく、それに特に情的に応えてくれる存在を実感する。
強いときには、自分の身体全体が振動するほど感動する。
これらの事象や体験を説明できないというところに、理神論の限界があるといわなければならない。


神は不公平・いじわるだという考え方について
自分が一点の曇りもなく善である時だけ神が働く
祈りや瞑想、善行を通して神を感じることが多々あるが、自分に一点でも「人に良く思われたい」とか、「自分が得したい」など様々な、邪念があったら、神は働かない。神と出会うこともできない。
これは、信仰の体験であるが、善なるものにしか神が作用できないということからして、神は善であると感じる。

1. 無神論
(神はいない)
神は沈黙しているのではなく、もともと存在していないという考え。 →無神論について
2, 理神論
(神には愛がない)
全知全能だが、愛のない神が存在し、愛の欠如ゆえにこういう事態に全く手を出さない。 →理神論について
3, 情神論
(神は無能)
愛の神だが、無能な神が存在し、能力の欠如ゆえにこういう事態に全く手を出せない。 →情神論について
4, 人格神論
(神は全知全能で 愛がある)
愛の神であり、全知全能の神は存在するが 何らかの重大な理由によりこういう事態に全く干渉しない。 →人格神論について