いつになっても、幾つになっても。~パート2

ジョーです。
月曜日に真っ赤になって返ってきた卒論。

jyo
「さあ、しっかり修正していかないと」
 そう思って、PCに向かい早2時間。時刻は午前1時半。

そろそろ自分の中で、いつも集中し始める時になる頭がボーっとした感覚になり始めた時でした。そのまま作業に入れば良いものを、僕はこんな遅くにcaféへと足を運んでしまったのです。そう、かなともcaféに。そして、卒論の作業をそっちのけにさせてしまう記事に僕は出逢ってしまいました。それは、先生が書いた「いつになっても、幾つになっても。」でした。

僕はダメなんです。僕は涙もろいんです。
だから、あの記事を読んだ時、僕の目頭もあの訂正された卒論のように真っ赤な色になりそうでした。良いお話でした…本当に…。
こんな事を言うのは先生に失礼だと思うけど、僕は普段、先生をとにかくシビアな人だと感じる事が多いので(言い返せば僕が甘ちゃんなんですが)、この記事を読んだ時は心底、先生の温かさはもちろん親子の温もりを感じました。ただ、この表現から誤解を招きそうなのでしっかり言っておきます。僕が普段先生を冷たい人だと思ってはいませんからね。

僕も数週間前に母と買い物に出掛けました。きっかけは僕の誕生日が近いということで、「欲しい物を買ってあげる」と母が言ってくれたことでした。
しかし、僕も22歳。誕生日を気にかけてくれなくても良いのに、気持ちだけで十分だよって思ってしまう。傍から見れば大人と言える年齢だし、僕自身も少なからず、毎日朝早く登校し、ボール1つで校庭に友達と飛び出してはしゃいでいた頃よりは、考え方にしろ、物事の捉え方にしろ、随分と自分は大人になったと思っている。
いや、大人になったという言い方は良くないかな。そもそも、何を持って大人なのか自分自身分かってない。だから、もう子どもではないと言った方がまだしっくりくる。だって、免許を取って車を運転できるし、バイトで稼いだお金を自分なりにやり繰りすることだって出来る。ただ、子どもではないって基準もこんなちんけなものしか出てこないし、まだまだ親の支えがないとまともな生活が送れないというのが本当のところだと思う…(笑)。いつか僕が1人立ちしたとしても、やはり、親からしたら「いつになっても、幾つになっても」僕のことは子どもにしか見えないのだろう。話を戻して、結局、母と出掛けた際、気持ちだけで十分なのにと思いつつ、僕は母が言ってくれたようにしてもらった。ただ、お互いいくつ歳を重ねても親子で出掛けるというのは良いものだと感じた。

僕がここまで育つ中で、親は多くの時間とお金を僕のために費やしてきた。大学を卒業したら、少しずつ親に僕のために費やしたお金と時間を返していきたい。僕に掛かる負担は全て僕が負担する、出来る限り親と一緒にいられる時間や親のために何かをする時間を作る。当たり前のようだけど、何気ない日常を親にとって豊かなものにしてあげられることが、僕なりの親への恩返しだと思っている。

ふぅ…
時刻は午前4時。
こうして、僕は卒論作業そっちのけで、かなともcaféの記事を書き終えました。